命は尊いものだと言われる。

なぜ?
それを考えてみる人はどれくらいいるのかしら?
と、時々思う。

なぜ、命は尊いの?
この問いに、明確な答えをだせる人はどれくらいいるのだろ?

理由なんてない、尊いから尊いのだ!
これでは、ただの根性論だ。

尊いと思う人だけが、なぜかわからないけど、尊いという。
まるで、ツチノコがいると信じている人の頭の中にだけツチノコがいる
と言うのと何もかわらない。

であれば、それはたんなる幻想であり、たんなる好き嫌いの範囲をでない。
自分の心の満たし方、命が尊いと思うことで、素敵な自分になれる
ただ、それだけのことだ。

主人が亡くなったあと、あまりにも辛くて
私の禅のお師匠さんのところに、話しをさせていただきに行った。

私「命はなぜ尊いと言われるのですか?」
師「命というのは、すなわち生でしょ?
でもね、生きることが尊いんじゃないよ、
生きると言うことを引き受けることが
尊いんですよ。」
私「なぜですか?」
師「引き受けなくてもいいから」

確かに、自分が望むも何も、何もわからない中で、ある日この世界にたった1人で泣きながら放り出されて
そうやって人は産まれてくる。
全ての人はそうなんだ。

たまたま、両親の精子と卵子が結合して、受精卵になり、それが細胞分裂してできたのが、私たちだ。
そしてたまたま、それが私であっただけにしか過ぎない。

もし私ではない他の誰かが私の代わりに産まれても、両親はその子を愛し可愛がるだろう。

私であるから両親は愛するのではなくて、自分たちの子どもだから愛するに過ぎない。

自分が自分として産まれてきたことには、根拠なんてなくて、偶然、たまたま私だっただけ。

私の側に愛される理由も根拠もなくて、たまたまその両親の子どもとして産まれたから愛される。

それでは、辛いから
人はみんな、愛されるに値する、素敵な自分
その根拠を、無意識的につくりたがる。

私たち人間には、自殺する能力がある。
それでも、どんなに辛くても、生きることを引き受ける。
たまたま産まれたに過ぎないこの生を、引き受けること、そこにこそ尊さがあるのだ。
それは、生きると言う覚悟だから。

命の尊さとは、その覚悟に対しての尊さなんだよ。
つまり、人の命が尊いとうのは、それを引き受けることの中にしか、尊さはないのだ。

そして、多分
対人援助も同じこと。
その役割を引き受ける覚悟
そこにしか、対人援助者の意味はない。