私たちは、どういう家に、どういう両親の元に、生まれてくるのか
そもそも生まれたくて生まれてきたのか。
それは、おそらくですが「運」でしかないのだろうと思います。

過去生の話をされる方もおられますが
「なぜそうだと言えるのか?」
という問いに対して、最終的には
「そうだから、そうなのっ!」
以外に答えられないでしょう。

そして、その過去生という、あるのかないのかわからないものに対しては
「それを言う誰か」が必ずおり
その人の言ったそれは、本当なのか幻想なのか
誰にも証明できないことなのです。

なぜその人にそれ(過去生がこうだから今のあなたはこうなのだ)がわかるのか?
何を根拠にそれが本当だと言えるのか?

この問いに対しては、おそらくそれを語った人に対しての
ある種の信仰心のようなものを根拠とする以外にはないのかもしれません。
つまり
「あの人が言うから、そう(正しい)に違いない」
ってやつです。
あるいは、一種の集団催眠
つまり、「みんなが信じてるからそうに違いない」
ですね。

あくまで、そうかもしれない、違うかもしれない。
以外は言いようがないことなのですが
それを信じる人にとっては、そういうある意味幻想かもしれないそれが必要なのだとも思います。

妄想か幻想か本当のことなのかを証明できないスピリチャルなものは
それが正しいかどうかより、それを採用する人にとって
「なぜそのストーリーが必要なのか」
そちらの方が、おそらく考える上で大切なことなのではないかと私は思います。

そういうわけで、私は出生については、多分 「運」以外は何もない
そう思っているのですが
それでも、「運」「たまたま」でしかない、どこに、いつ、どんな両親のもとに、どんな環境に、生まれ育つのか
ということは、私たちの物の見方や行動傾向に決定的な大きな影響を与えます。

虐待を受け続けて育った人は、無意識的に世界や人は恐ろしいものだと思い
不安の強い人になるのかもしれません。
支配的な両親に、ずっと支配されて育った人は、人が強く自分に向けるものが善意なのか支配なのかわからなくなり、人との深い関わりを無意識的に避ける人になるのかもしれません。
精神的に不安定な親に、子どもであるにも関わらず精神的介護をして育った人は、嫌なことは嫌だ、無理なものは無理だと、ちゃんと言葉にして言うことができず、無理をしがちで内に怒りを隠し持つ人になるのかもしれません。

これらは、本当に残念なことですが、ただの「運」でしかなく、いわば「ガチャ」のようなものです。

そうして、つらいサバイバルな環境に「たまたま」育ったとしても
その成育環境由来の自身の行動傾向を
「あなたは可哀想な人だから、私が望まないことをしたり言ったりしてもいいわよ」
と言ってくれる人はいません。
仮に一時的にそう言い、わがままも、迷惑も、勝手な悪勘も全て受け入れてくれたとしても
残念ながら、相手も人間である以上、それは期限付き。
人間である以上、そういったものに(金銭的あるいは何かの)縛りがない限り
いつかは疲れてしまい、徐々にフェードアウトしていってしまう。
それが、神ならぬ人間なのだと思います。

自分に自分の望みがあるように
相手には相手の望みがあり
自分に自分の考え方があるように
相手にも相手の考え方がある。

私たちが生きているこの世界は、そんな「『人間』と『人間』」との世界なのですから。

今このままの自分の全てを許し受け入れてくれる人が欲しい
という、とても切ない想いは、じゅうぶん理解できるし
実際、現実の人間には存在しない、そんな神のような存在を強く希求し続けて
実際の「生きて目の前に存在している」「人」との関わり、コミュニケーションに
困難さを抱えて生きておられる方たちがたくさんいます。

大変に切ない話だなぁと思います。

けれど、経済的に自立して以降は
自分のことを自分で決めても、生きていくことはできます。
つまり、自分にとって悪い影響しか与えない人との関係は切ってしまっても
それでも食べていくことはできるのです。

そうなってしまえば、もはや
過去は過去として、今現在の自分のふるまいの結果は、これからの自分が受けざるを得ません。
選択しているのは、過去の自分ではなく、今現在の自分なのですから。

当たり前と言えば当たり前のことですが
他人にとっては、過去がどうあれ今目の前にいる人のふるまいが全てであり
そのふるまいの如何によって、人から返ってくるリアクションやレスポンスが変わってくるのです。

ガチャのような運でしかない出生によって、現在の自分の傾向は作られているけれど
それでも、今現在の自分のふるまいの結果は、1秒後の、1分後の、明日の・・未来の自分へと返ってくる。

生きるというのは、ある意味、とても切なく不条理なものだなぁと思います。

ただ、大きな希望は
自分自身のふるまいによって、未来の自分の運命をある部分作っていける
ということです。

自分の今この瞬間の選択が未来を創る。

これは、誰かに自分の選択を奪われ続けてきた人にとって
大きな希望でもある
私はそう思います。

そのためには、時に自分の足をひっぱってしまう自分の傾向
自分の物の見方
それらをまず、自分でよく知ることです。

わざわざ不幸になろうとして行動する人は、そんな多くはいません。
ほとんどの人は、よかれと思って行動し、選択している。
ただ、その「よかれ」の根拠が、現実をきちんと見れてなかったり、独りよがりだったりするだけで。

これを釈尊は「無明」と言いました。
言い換えれば「愚か」であるということです。
「無明」を脱すること、それが涅槃への道であると。
これは、現実を正しく見、自他の境界をつけた目で世界を眺めること。
そうとも言えるのかもしれません。

人間である以上、間違うのは当たり前のことですが
自分の行動や物の考え方の傾向をきちんと知っておくことは、愚かな濁った眼のまま突っ走ることを防いでくれるように私は思います。
同時に、その自分の癖をどういう風に変えていけば、より幸せな未来を創れるか
そのことをよく知ることです。

あ、これはいつものパターンにはまる!
それがわかっていれば
そして
こういう場合、こういう風にする方が未来の自分のためになる
それがわかるようになれば
もはや、どんな成育環境であるかではなく
自分で自分を幸せに連れていくことができるでしょう。

とはいえ、自分との直面化は、たいていとても胸の痛むことです

自分に直面化するのは大変に胸の痛いことだからこそ
占いなどで「あなたはこうです!」と
言って欲しい人が多いのかもしれませんね。
誰かが言うのなら「違うわよ、勝手に決めつけないで!」という風に
直面化の痛みから逃げる道もありますから。

私たちが愚かであるのは
結局、妄想や仮想ではなく、自分自身含めて人は世界をあるがまま見ることから避ける
という、ここにあるように思います。

まぁそうは言っても、それって、メンタルマッチョにならない限り
とても難しいことですから、ある意味仕方のないことだとも思いますが。

自分の顔は鏡がなければ、直接自分で見ることはできません。
だからこそ、よい鏡を持つこと。
時に優しく、時に耳に痛いことでも、きちんと今の自分について教えてくれるような
そんな人との縁と関わりを大切にすること。

そして、勉強ができるとかできないではなく、
きちんと冷静な目で現実の世界を眺めることができる人を見つけたなら、
その人から離れないことが大事なのだろうと思います。

なかなか、そんな人はいないのですけれど・・。