ずっとブログをお休みしていて
「ブログが止まっているので、心配しています。
 お元気にしておられますか?」
なんてメールをいただいたりもしていました。
ご心配おかけして、申し訳ない。

とはいえ、時々FaceBookには投稿してたりしてましたので
そっちで生存確認してくださってた方もおられたり。

とはいえ、最近FaceBookも、ちぃとオワコン風味だしね。
また、頑張ってブログの方に書いていこうと思います。

今日は、最近FaceBookに書いたことからの再掲です。

今を去ること結構昔。
ある日突然、はるか高みへと上がってしまわれて
やっと、どれくらい自分にとって夫が大きな存在だったかを
嫌というほど自覚しました。

自分の半身がちぎれて、切り口からびゅうびゅうと血を流し続けるような痛みに
それでも耐えて生き続けるしかなくて。
息子を天涯孤独の身にすることはできなかったからねぇ。

僧侶であるお師匠さんは
以前、何かの話の中で
「出家するにあたり、やっと自分のお尻がおさまったような安堵感を感じながらも
戒律ゆえに、『何があっても、還俗しない限りは、自死という選択肢をとれなくなった』
ということだけが、ただひとつの出家の痛みだった」
とおっしゃっていたのだけれど
夫をなくしたあと、その言葉の中にある痛みに、深く共感したのを覚えています。

そして
息子にとって、彼自身が自分の家庭を持たなければ
おそらく彼より先にいく私は
必然的に彼を天涯孤独にしてしまうし
その分だけ喪失の痛みを息子に置いていくことになるんだよなぁ、とも思いましたよ。
実に切ない。

じゃあ、その痛みを私が引き受ける?と聞かれれば
もう2度と夫の時のような痛みを受け止められる自信もないし
なので息子には、私よりも先にいかないで欲しいと願っているのだけれど。

・・・・・・・・・・。
これって、誰がその痛みを引き受けるのかという、ボールの投げ合いだよねぇ。
こればっかりは、神の味噌汁としか言えないのに・・ねぇ。

生きて別れるか、死んで別れるか
その後もう2度と会うことがないのであれば
どちらも、実はあまり違いはないんじゃないかしらん、と最近時々思います。

出会いは、必ず、そこに別れを内包している。
無常ですよ、無常。
そりゃ、ゴータマ釈尊も出奔して出家もしたくなるわ。

な〜んてちょっと賢そうなことをうすらぼんやり思っていたら
数年前
さらに、世の無常を知ってしまいましたよ!

私は死にかけて
そして、死にぞこなったのです。

数ヶ月続いた40度近い熱。
絶え間ない腹部の痛み。
からの緊急入院と手術。
やっと終わりかと思えば、その後、術後に予想外の腸管穿孔。

ドレーンのチューブに食事の残滓が混じっててさ、どう考えても腸管穿孔してるやん?
という私の訴えを、何度訴えても、毎日回診に来る研修医は理解してくれず
看護師さんの尽力を得て、主治医に事の重大さが伝わった術後1週間目の再手術。

いやほんとキツかったね。
死を覚悟はしたけれど、ちょっと急すぎて、終い支度をなにもしてなかったからねぇ。
つか、まあ普通はそうだわな。

なんと、あと数時間手術が遅れていたら、死んでいたらしい。

ってことを、あとから息子に聞かされた時は
さもありなん!
と思ったよ。
自分の体だからね、自覚あったもん。

んなわけで
否が応でも、自分の死というものと直面化した出来事でした。
人生で初めて、自分の身体状況を以って
うむ、こりゃ死ぬな、と思いましたからね。

つくづく思いましたよ。
ほんと無常、この世もあらゆる命も。

あの時は
祇園精舎の鐘の音が鳴り響き
無常大祭りを迎えましたね、えぇ。
よくぞ出家しなかったよ、私。

まぁ、その無常大フェスティバルのせいか
そのあとから、いつ自分がこの世界から去っても、心残りがないように
ということを、単なる言葉ではなく、身体感覚を伴って考えるようになりました。

とりあえず
きちんと感謝を伝えておきたい人たちに
ちゃんと心からのお礼を伝えるということをせずにはおられない気持ちになって
なんのフラグ?と思われかねない、あらたまっての感謝を伝えたりもしたなぁ。

ちなみに
それ以後も
またその人たちに会ってはいるけれど
なんだかじょじょに、日々というものに対して
「余生」「オマケ」のような感覚になっていって
そうしたら
自分なりに、「好き」と「執着」の違いが
身体感覚を伴ってわかるようになってきました。

わかるようになってみると
それまで好きだと思っていたアレヤコレヤは
実は、好き以上に、執着だったことに気づいてしまったり・・。

なんてこったい!
オーマイガー!!

とりあえず、反省した。
愚かでバカは、私だった・・。

かつての自分に身悶えするような羞恥を感じ
とりあえず、1人でゴロゴロくねくねのたうちまわっておいたよ。

まぁそれでも
死ぬまでに気づけてよかったな、と。
今際の際にへたに気づいたりなんぞしたら
それこそ、心残りで苦悶の表情、人生最後に最大なブス顔をして退場することになってしまう。
それは激しく嫌だ。
とりあえず、セーフ。
よかった。

神様仏様精霊様、とりあえず、思いつく限りのありがたそうなものに感謝を!

以来
「後悔」と「心残り」ということは、私の中で大きなテーマになりました。

お師匠さんに会いに福井に行って、帰る時
もしもう2度と会うことがなかったとして
心残りはないか?
と、気づいたらそう考える自分がいるし
かなーり好きな友人に会った時も、
別れる時は、これが結果的に今生の別れになったとして、心残りはないか?
と考えている自分がいるし
身内にも、時々は連絡もしてみたり。

そして
セミナーの最後
お疲れ様でした
と、いつの頃からか気づいたら、必ず合掌して締める自分に気づいた時も
(閉店の時に流れる蛍の光的なw)
次回に向けての1人反省会はするとして、それとは別に
今日の日に心残りはないか?
と考えている自分がいます。

それでも、けっこうたびたび、心残りのタネになりそうな日もあって
なかなかに悩ましい話ではあるんだけれどね。

おかげで
「くどい、話が長い」という悪癖に拍車がかかったのは困ったことですがw

相変わらず、うしろを振り返れば
そのうしろには、後悔が累々と横たわっているけれど
せめて、その後悔を心残りにしないためにできることをしていくしかないよね、と思っています。

誰だってみんな、全ての人に
大小の違いはあれど紆余曲折はあるもので。
振り返れば、そこには歯噛みするほどの後悔や痛いことだってあるでしょう。

だけれど、後悔したところで、後悔役立たず。
神ならぬ人だからね。
誰だってやらかしちゃう、それは恐らく全ての人が、ゼロにはできない。
私たちにできることは
その反省や痛い思いを糧に自分自身が成熟していくことだけなんじゃないかしら。

だからこそ
自分のために、そして愛しい人たちのために祈らずにはおられないのです。

乗り越える力と強さを、と。