何事も言葉にすると、言葉から零れ落ちてしまうものがある。

あの人は「酷い人」だった
と、言葉にしてしまうと
無意識のうちに、その「酷い人」から受けた「酷くなかった」仕打ちは
「酷い人」と言葉にした人の中から零れ落ち
酷くなかった仕打ちには、まったくフォーカスが当たらなくなる。

カウンセリングやコーチングの世界では
「例外探し」と呼ばれたりする質問方法があるのだが
そういう、その言葉以外のものにフォーカスを当てていくような質問があるのは
言葉というものの持つ、上述した性質があるからだと思う。

例えば
「ずっと辛いんです、息をしているだけでも辛い」
という人に対して
「辛い時間が多いんですね」とか「一日中ほぼ辛い気持ちで過ごされておられるんですね」
などと、とりあえず相手の言葉を否定せず、そのまま受けたあと
(↑ここ大事、まずはペーシングから)
「トイレで頑張っているときはどうですか?」
などと、辛い気持ちを忘れている(というか、何かに集中していて、辛い気持ちを一瞬忘れている)であろう時間について質問してみたりするのも
「ずっと辛い」という形で言葉にしてしまうことで、そうではない時間というものが零れ落ちてしまうからだ。

けれど、私たちは、自分の中を詳細によく観察してみると
言葉にする前、先に視覚的、聴覚的、嗅覚的、味覚的、触覚的な何かを身体が感知している。
そして、それについて一瞬のうちに言葉をあてて概念化して
自分なりの、あるいは自分ならではの、何らかの理解を得ていることに気づく。

例えば
海が風でさざめき海面に反射した太陽光が揺れる、いわゆる「海がキラキラ」している視覚的なものがあり
その時に「綺麗だなぁ」と言語化されたりする。
口腔内いっぱいに広がるクリームの脂肪と、そこに融解されて飽和されている糖の甘味を感じ
「おいしい!」と言語化されたりする。
耳をふさぎたくなるような、頭の芯がキーンとするような大音量を感じ
「うるさいっ!!」と言語化されたりする。

全てのことは、言語化される前に、いったん身体感覚を通っているのだけれど
言語化された時点で、言葉になっていない感覚については零れ落ち、切り捨てられる。

そうはいっても、私たちは言語化しない限り
何かを理解したり、受容したり、判断したり、伝えたりすることは不可能なので
言語化という作業は、私たち人間が生きていく中においては必須であり、不可欠なものなのだけれど。

だからこそ
すぐに言葉にするのではなく
しばらく、言葉にする前に、自身の五感全てを使って
対象を観察することが、対象をよく理解し吟味する上で、大切なことなのではないかと思う。

反射で動く(言語化という作業も含めて)のはではなく、いったん立ち止まってみて
自身の中に起こる感覚に丁寧に触れてみたり
対象を、再度丁寧に観察しなおしてみたりすることで
今まで気づかなかったこと、フォーカスが当たっていなかったことに気づけたりすることもある。
また、丁寧に触れてみた結果の理解(=言語化)であれば
自身の中の納得感もより深いのではないだろうか。

すぐに答えを欲しがる、自身の中に何かを抱えておける力の低い人には難しいことかもしれないけれど
すぐに言語化し理解した気になるのではなく
この、言語化される前にある自身の中の感覚や対象に、今より丁寧に観察を向けてみることは
その人の世界を、今よりも少しだけ豊かなものにしていくんじゃないだろうかと思う。

効率という名のもとに、あらゆることがハイスピード化している現代、
私たちは、ほんの数秒立ち止まって、世界を、自身を、眺めてみる余裕をなくしてしまいがちだけれど
そのほんの数秒立ち止まって見るということは
私たちが、大人になった今よりもずっと無知で、
そしてずっとずっと世界への好奇心に満ちていた幼少期に持っていたものであり
私たち人間、もっと言えば言葉を持たない動物全てが持っている
大切で、そして原初的な
世界へ向けて開けた心のありようなのだ。

言葉にするということは言い換えると
全体の中からある一部分を切り出して、そこにフォーカスをあてるということだ。
また、言葉にすることで、それとそれ以外との境界ができる。
何を言葉にし何が言葉から零れ落ちているのかを自分自身で気づくのは、とても難しい。

大人になるにつれ、社会活動・経済活動をするにつれ
やたらカタカナばかりの経済用語や、実体を持たない概念的な言葉が増えていき
自分の使う言葉に身体感覚を失っていくのが、今の大人の姿のような気がしている。
身体を持っているのに頭ばっかり大きくなって、身体感覚をおざなりにしている現代人は
生き物として、なんだか歪つになってしまっているのではないだろうか。

フトそんなことを危惧したりするのは
せっかくとった夏休みにも関わず、大型台風のせいで、家にじっと籠っているせいかもしれない。