課題の分離

アドラー心理学

アドラー心理学には、課題の分離という言葉があります。
課題の分離とは、何か問題が起こったとき、起こりそうなとき、その問題を課題と呼び
それについての最終的な結末を経験し、責任を負うのは誰か
ということなのですが、ちょっとわかりづらい言葉ですよね。

それを実行するのは誰か?とか、それについて最終的に結論を出すのは誰か?
そう考えるとわかりやすくなりますかね。

アドラー心理学における課題とは

例えば、友人の彼女が友人には内緒で、別の男性、しかも複数と付き合っていたとします。
*いわゆる二股っていうか、この場合タコ足配線と呼ぶ方が適切かしらw
そのことを知ってしまったあなたは、その友人に

実はあの女は、君以外にも何人もの男と現在進行形で付き合ってるんだ
君は騙されているんだ。
悪いことは言わない、あの女とは別れた方がいい。
いや別れるべきだ!

な~んてことを言うかもしれません。

ここで課題の分離の登場です。

そのタコ足配線女性と、別れるという決断やそれをするという行為を行うのは誰か?
もちろん、あなたではなく友人本人ですよね?

ですから、その女性と別れるか別れないか、というのは友人の課題(タスク)ということになります。

また、その女性と別れろと友人に忠告をするという行為をするのは、あなたです。
ですから、友人に忠告するかどうか、は、あなたの課題(タスク)ということになります。

どうでしょうか?
少し、アドラー心理学において言われる課題という言葉がおわかりいただけたかな。

課題の分離

で、だ。
アドラー心理学では、それは誰の課題か?ということを言います。
これが課題の分離

なぜ課題の分離を勧めるのか?

課題の分離って、語弊を怖れずにいうなら
人のことに口をはさむな
ってことですw

これね、アドラー先生は、別に道徳的な話をしたいわけではないのです。
超プラグマティックな人ですからねぇ、アドラー先生は。

もちろん、礼儀というか、道徳的な見地から言えば、勝手に人のことに口を出すのは、とても失礼なことです
というのもありますが。

結局、この例でいえば、そのタコ足配線女性と別れるか別れないか決めるのは、あなたではなく友人本人です。
ですから、あなたはどんなに言葉を尽くそうとも、基本的にはあなたにはどうすることもできないことなんですよ。

自分には選択することも決断することもできない他者の選択について、あれこれ思い悩むのはエネルギーの無駄であり
そんな余力があるのなら、まず人のことより自分のことに向き合いなさい
と、アドラー先生がいいたいのはこれ。

だって、他者とは究極、縁を切ることも、つきあいを遠ざけることもできますが
自分自身とは死ぬまで付き合わざるを得ないですから。

だったら、まずは死ぬまで付き合わざるを得ない自分の人生に、全エネルギーを注ぐのが、合理的ってもんじゃぁないですか。

これはあくまでも私見ですが、割と平気でカジュアルに無責任に人のことに口を出してくる人って
おうおうにして、自分のことを平気で人に丸投げしたりしがちだよなぁって、そういう印象はあります。

自分のことに自分のこととして責任を持って向き合わないから、エネルギーが余っている。
その余っているエネルギーを、自分が責任を負わなくていい人のことに口をだしている
と、そういう風に、私には見えることがおうおうにしてあります。

もしかしたら私の偏見なのかもしれませんが
課題の踏み越えを平気でしてくる人には用心しなきゃねって思っています。
そういう人って、責任転嫁を平気でしてくるアンフェアな人が多いよねっていう
そういう印象が強いからです。

選択の結果は引き受けざるを得ない

仮に友人に忠告をした結果

そんなことは聞きたくなかった!
知らないでいたら僕は幸せでいられたのに
君とはもう友達づきあいできない

なぁんてことを仮に言われたとします。
それは、あなたがあなたの課題である「忠告をするかしない」について選択したことの結果であるわけですから
その友人の態度に憤ることは、あなたの勝手ではあるのですが
そのことも視野にいれて、そうなってでも忠告をする、という覚悟を以てしなきゃいけないことなわけです。
*いやまぁ、憤りたくなるのも、人情としてわからんでもないですが

自分の選択の結果ですから、ましてや人から強制されたり強要されたりしたわけでもないワケですし
自分の選択の結果を、自分の選択の結果であるとして引き受けるのが大人である
と、アドラー先生はそうもおっしゃってます。

もっと言えば、引き受けざるを得ない、というほうが正確な気がしますが。

だから、友人がそのタコ足配線女性と別れるか別れないかという、友人のタスクに気をもむことよりも
自分が忠告した結果、友人と自分との関係に何らかの変化があるのかどうか
の方について、よく精査し、最悪のことも想定したうえで選択しないと、なわけです。
上記の例のように、自分では友人のためを思ってのつもりでも、相手によって有難迷惑でいかないことって、おうおうにありますし
よかれと思って忠告して、その結果、大事な友人に絶縁を言い渡されたとしても、あとの祭りでしかないのだから。

そういうことを鑑みると、実は選択・決断するって
そのために最悪のシナリオも考えて、それを回避するための何等かの手段も考えて
もちろん、そのための情報収集もして
と、実に多くのことが必要で、結構エネルギーを使うものだったりします。

そんな風に、自分の人生を生きている人は、人のことに口を出す暇もエネルギーもあんまり多くはない、のはごくごく当然のことなんじゃないかなぁ。

最終的には、決断は本人にしかできないものだし
決断した結果は、望もうと望まざると関係なく、本人のもとへかえっていくものです。
だから、課題の分離をして、どういう決断をするかわからない他者のことよりも、自分で選択し決断するしかない自分のことに、まずはエネルギーを注ぎない。
それが、自分の人生を生きるということですよ、と

アドラー先生のおっしゃることは、私には、しごく当然のことのように思えます。

人生は選択の連続

生きるってことは、選択の連続です。

今日のお昼ご飯に、何を食べるか
今日の洋服には、どの靴を合わせるのか
明日のお天気は雨予報なんだけれど、キャンプに行くのか行かないのか *これはキャンパーあるあるかな

そして、選択の結果がいつもいつも望ましいものになるとは限りません。
選択の結果、あぁこれは失敗だったと思うようなこともたくさんあります。
そうやって、小さな失敗を重ねながら、人は成長していくものなのだと、私はそう思っています。

課題の分離は、自分の人生を生きるために必要なこと
人生を重ねれば重ねるほど、アドラー先生のこの言葉が、胸にしみるような気がいたします。

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