自分の存在にOKを出すって…

アドラー心理学

今から10年ほど前、今は解散してしまったスマップの「世界にひとつだけの花」という歌が流行りました。

その歌の中では

ナンバーワンになれなくてもいい
もともと特別なオンリーワン

と歌われています。

多くの人が、この歌に感動したそうですが
私は、そのことに、そんな時代なのだなぁと、少し悲しく思ったことを覚えています。

オンリーワンになるには、そうだと認める誰かの存在が不可欠

ナンバーワンというのは、比べる相手がいればそれで
自分が1番目なのか2番目なのか、10番目なのか50番目なのか、わかります。

けれど、オンリーワンになるには
色々な人がいるけれどあなたがオンリーワンだ
と、そう思ってくれる人の存在があって初めて、オンリーワンになれるのです。

つまり、オンリーワンであるためには、
オンリーワンであると認めてくれる誰かが必要だということです。

この歌に多くの人が涙したということは、多くの人が
ただ自分が存在している、ということについて自分でOKを出せない
OKを出してくれる人の存在を得たい
ということではないのだろうかと
そう思うと、この歌に多くの人が感動したということが、少し悲しく思えたのです。

少なくとも、生きていることを願ってくれる人はいる

多くの親というものは、ただ自分の子どもが存在しているだけでOKです。
どんなに頭を悩まされる子どもであったとしても、それでも最後は
生きていてくれさへしたらいい
そこにいきつくものです。

え?
うちの親は違う?

そうでしょうか?
仮に、もしもあなたが余命宣告をされたとしたら…

きっとあなたの親は、今まで色々とやかましく言ってたことなんて全てなかったかのように
ただ、あなたが生き続けることだけを、心から望むのではないでしょうか?

何でもいい、ただ生きていて欲しい
それを願うのではないでしょうか?

自分の言うことを聞かない子だから、親から見て出来の悪い子だから、だから死んでもいい
いざ我が子の命の残り時間に直面化したときに、そんなことを思う親というのは、ほぼいません。

自分の言う通りの子であることを押し付けて、いい子であることを求めるのは
あなたが生きているから、その上での贅沢なのです。

死ぬと思っていないからこそ生じる贅沢、それをはぎ取ったとき親の心の中に残るのは
ただ我が子の元気と幸せです。

これは何も親だけに限らず、家族や仲のよい友達というものも、ほとんどみんなそうなんじゃないかな。

それに気付かず
自分が、ただ存在していることに対して、オンリーワンであるというふうにOKを出してくれる存在を求める

この「世界にひとつだけの花」という歌は、その、願いのような気がして
悲しく思ったのです。

誰かに喜んでもらえることをしている人は生きがいを見つけやすい

ナンバーワンでもオンリーワンでもなくても
ただ、あなたが存在していること、それを喜んでくれる人がいる。
ナンバーワンでもオンリーワンでもなくても
自分の存在が誰かの役に立っている
そう思えたとき、人は生きがいを感じられるものです。

生きづらさを感じながら生きている人と
そうではない人とは、何が違うのか
それを考えたとき

自分がやりたいことをやっているかどうか?だけではなくて
自分がやっていることが誰かの役に立っている、誰かに感謝される
自分が存在していることはいいことなのだ、少なくとも悪いことではない
それを無意識の中で思えるかどうか
その違いもあるような気がします。

自分がやっていることなんて、誰の役にもたたない
そんなことをおっしゃる方は、案外多いのですが

例えば、専業主婦。
その存在によって、家族がいつも、洗いたての清潔な衣服を、苦労なく着ることができます。
家族はいつも、温かい出来立てのご飯を、ただテーブルに座って待っていれば、食べることができます。
家が埃だらけにならず、家族は歩くたびに足の裏にゴミや埃がついてくるような、そんな生活をしなくてすみます。

専業主婦というのは、人間の日々の生活の中の、最も基礎をなる部分を
家族みんなが気持ちよく過ごせるために、日々色々とやっている尊い仕事だと
私はそう思います。

アドラー心理学における勇気付け

アドラー心理学では「勇気付け」ということを、とても大切にするのですが
アドラー心理学における勇気付けというのは、ただ相手をいい気持ちにさせることではありません

その人が所属の喜びを感じ、誰かに喜んでもらえることに喜びを感じ、生きているって素敵だなぁ、生まれてきてよかったなぁ
そんな風に自然と、無意識下で思えるようになれるように、相手を勇気付けるのです。

つまり、自己効力感を育てるための勇気付けをするということもできます。
誰かの役に立っていると実感できたとき、人は自分の存在にOKを出せるものだったりするので
そのために、人の役にたてるようになるように、そのための勇気付けをする
アドラー心理学における勇気付けというのは、そのように定義されています。

だから、相手が失敗したときに
気にしなくていいよ
なんていうのは、アドラー心理学の思想では、勇気くじきなのです。

残念だったね。
次はどうしたら、うまくいくと思う?

そう尋ねること
仲間として、一緒にそれを考えること
これが、アドラー心理学における勇気付けです。

元気がない人には、勇気付けをしてあげて欲しいなと思います。

あなたのやっていることで、私はこんな風に助かってます、ありがとう。
あなたがいることが、私の力になります、ありがとう。

そんな風に、元気がない人の自己効力感を上げる声かけをしてあげて欲しいなって思います。

オンリーワンでもナンバーワンでもなく
自分が誰かの役に立っている、自分が生きていることには意味がある。
そんな風に相手が思えるように、勇気付けをしてあげて欲しいなと思います。

ほめられたい気持ちの使い方次第

私たち人間はみんな、誰かにほめられたい生き物です。
そんなことはどうでもいい、という人でも、ほめられて嫌な気持ちになる人はそうそういないんじゃないでしょうか?

人にほめられたい気持ちを、上手に使って何かをやっていければ、それは人の役に立てるでしょうし、人から愛されたり求められることも増えるでしょう。
人にほめられたい気持ちが空回りして、ただ自分をアピれば、みんなにウザがられる。
ただ、それだけのことです。

人にほめられたい・認められたい気持ちを、どういう形で使うか
それが、人間が持つ誰かに認められたいという本能みたいなものを、いいものにするか悪いものにするかを決めるのです。
要は使い方です。

やたらアピって、ほめさせようと策動する人は、ウザがられて疎まれるけれど
自分からアピることなく、自分のできることを一生懸命している人は、必ずその努力を認めてくれる人がどこかにいます。

自分が生きづらいと思っている人は
どうか、今の自分がやっていることで、どんな人がどんな風に助かったり、喜んだりしているのか
自分はどういう風に誰かの訳にたっているのか
そこに思いをはせて欲しいなぁと思います。

そこを見ていけると、私たちは生きがいをみつけていけるし
自分の存在に自分でOKを出せるようになる
アドラー先生はそうおっしゃっていました。
私もそれが全てではないけれど、でも確実にそれはあるよなって思っています。

例えば、私はパンがすごく好きなので、旅に出ると必ずその付近の美味しいと評判のパン屋さんを探します。
美味しいパン屋さんに出会うと
よかった、ここにも美味しいパン屋さんがある!!
と、いつも大変に嬉しい気持ちになりますし、ちょっと幸せな気持ちにもなります。
よく、人のことを気にかけてくれる友人がいるのですが、私より1日でいいから長く生きていて欲しいなと思います
*つまり、私より先に死なれるとやだってこと、その人がいない人生は少し寂しい

自分の機嫌を自分でとって、ニコニコ機嫌よく暮らす

ナンバーワンを目指すことよりも、オンリーワンを目指すことよりも
自分の存在が、自分の仕事が、自分の言葉が、自分の笑顔が
誰かを喜ばせていたり、役に立っていたり、励ましていたり、和ませている
自分は、そういう風に在れているだろうか
それを今の自分に対して、問うてみるといいんじゃないかな。

大きなことをなせる人なんて、ごく一握りだけれど
いつもニコニコ機嫌よくいる人と一緒にいると、それだけで少しいい気持ちになれる。
掛け捨ての親切が、色々とごく自然にできる人は
それだけで、人の負担にならないばかりか、時にちょっと人を助けたりもする。

大きなことをしなくていいから
日々ニコニコと機嫌よく暮らし、自分の負担にならない範囲で、できることがあれば掛け捨ての親切をしてみる
それだけ?って思うかもしれませんが、それだけでも自分がいつも心がけていくのって案外大変で
でも、それだけでも、案外人生は変わってきます。

自分にOKを出せない全ての方に、そのことを知って欲しいなって思います。

フリでもムリでもなく、自然と日々ニコニコ機嫌よく暮らす秘訣は…
また、いつかブログに書きますね。