「自灯明・法灯明」という言葉、結構有名なのでご存じの方もそこそこいらっしゃるんじゃないでしょうか。
この言葉は、涅槃経という経典の中に記されている言葉で、ゴータマ釈尊の最後の教えと言われています。
ちなみに、この言葉はどういう背景の中で発せられたものであるかを少しお話してみます。
アーナンダという、釈尊の従者を務め、ずっと釈尊に仕え続けたお弟子さんがいました。
彼にとって釈尊は、教えの導きの師であり心から頼りとする偉大なる師でした。
その偉大な師が亡くなろうとしているとき、アーナンダは自らの偉大な師である釈尊に
「私は今後、誰から教えをうけ、どうやって生きていけばいいのでしょうか」と問いかけます。
約25年、釈尊のそばで教えを聞き、自らの愚かさ、身勝手さを知らされてきたからこその問いだったのだろうと思います。
なんていうか、他力本願的な愚かな問いではなく、己の無明を知るからこその、心からの真剣な問いだったのだろうなと。
それに対しての釈尊の返事が、この「自灯明・法灯明」でした。
「自らを灯明とし自らを所依とし、法を灯明とし法を所依とせよ」と。
先にくるのは自灯明
ここでミソなのは、「法灯明」ではなく「自灯明」が先に来ている点だと、個人的には思っています。
釈尊自らが説いた法ばかりを頼らないで、まず「自分自身を拠り所にしなさい」ということです。
まぁ自分の人生において、常に、そして最後の一瞬までともにするのは自分自身以外にいないからねぇ
なんて、浅い考えを持つことも可能なんですが
この自灯明って、簡単なようで難しい。
そもそも、灯とすべき自分自身がしっかり確立できている人って、どれくらいいるんだろう?という疑問がまず沸いてきます。
これは個人的な考えですが、だからこそ、その自身を灯とするためのアウトライン的なものとして、自灯明のあとに法灯明がくるんだろうな、と思っています。
そして同時に、灯りとし拠り所とする自分自身、それを常にアップデートさせブラッシュアップし続けていくこと
これが、おそらく、人間としての成熟というものなんじゃないかなぁと思います。
自分自身を創る
私にとっては、ミルトン・エリクソンという人は、方法論的に、目指す灯りのひとつです。
とはいえ、エリクソンは自らの方法論を自身で語ることをしなかった人ですから、色々な弟子たちや、後世の様々な人が、エリクソンのアプローチについて研究し、その中でそれぞれの人たちが自身の試行錯誤や経験を通じて、自分自身を創っていったのだろうなと、そう思います。
私もまた、エリクソンだけでなく、アドラー心理学や行動分析学・認知行動療法やTOCなど、様々な流派を学ぶことで、私なりのエリクソン研究というものをしてきました。
ですが、私自身の根底にあるのは、仏教(それもかなり原始仏教原理主義的な)世界観であり
諸行無常と、無明、そして縁起という3つをキーワードに置いています。
ですがそれも、私一人でというよりは、お師匠さんの存在が大きいように思います。
私の坐禅のお師匠さんがかつて10年間、東京にて毎月開いておられた「仏教私流(わたしりゅう)」という講座?に、合計240数回中150回以上は出席しましたし
そのあとも、ずっとお師匠さんが住持をされておられる福井まで毎月1度通い続け、ともに坐り、どうでもいい雑談をして帰る
という経験の中で、現在の私自身の根っこのようなものの一端が形作られていったと、そう思っています。
お師匠さんは現在は、青森にある恐山の院代(院主代理・副住職みたいなもんですな)も務めておられるのですが、おそらく近いうちに、福井のお寺の住職は去らざるを得ないと思います。
そうなったら、さすがに毎月青森までは通えないだろうと思うのですが、それでも最低でも年に2回は、青森までお師匠さんとともに坐りにいきたいなぁと思っています。
ただ、今の私は、お会いして言葉を交わすことはなくても
こんなとき、お師匠さんならどうおっしゃられるかな?
と考えることがあります。
とはいえ、それは実際のお師匠さんが言うわけではありませんから、私の中に内在化されたお師匠さんという、ある意味架空の存在が言うわけで
おそらく、これが私なりの自灯明・法灯明なのだろうと思っています。
お師匠さんというアウトラインの中で、自分自身が形作ったフレーム(ものの見方)があるということです。
誰から何を学ぶか?
これは、たくさんの心理学やコーチングのセミナーを受講した中でも、つくづく思ったことですが
誰から学ぶか?
誰を師とするか?
何を学ぶか?
ということは、ものすごく大きいよなぁと思っています。
やっぱり、先生となる人の影響って、結構大きいですからねぇ。
そして、これは私の敬愛している精神科医である神田橋條治の言葉なんですが
自分のやっていることとは違うジャンルのメンター的な人を見つけること
それもまた、大事だよねって思っています。
ちなみに、心理学やコーチングの世界では、メンターという言葉は
人生におけるお手本として、自分自身に強く影響を与える人という意味です。
同じジャンルの人だけだと、どうしても考え方が偏っちゃいますから。
私の場合、自分のやっていること、カウンセリングやコーチングの世界においては、ミルトン・エリクソンをメンターと仰いでいるわけですが
違うジャンルの、という部分で、坐禅のお師匠さんの存在があるという感じです。
誰が言うか、ではなく、何を言うか
メンター的な人がいれば、具体的にお手本として内在化しやすいので、ある意味においては楽っちゃぁ楽なんですが
そうは言っても、全面的全方向的に尊敬できる「人間」なんてぇものは、実際には存在せず
どんな人であれ、人間である以上は長所もあれば欠点もあるわけで
だからこそ、見習ったり取り入れた方がいいと思う部分だけを取り入れたらいいんだと、私はそう思っています。
上述した、師を選ぶ、ということと矛盾するようですが
誰が言うかではなく、何を言うか、ということ
それもまた、大事にした方がいいよなとも考えています。
言うことだけはご立派で、でも「お前がいうな」(いわゆるおまゆうですなw)なんてことは、生きていればままあることですが
その人が、その言葉を実践できているかどうかは別として
それでも、その人の経験を通しての言葉というものには、何らかの深みのようなものがあるなぁと思いますし
その人が、その言葉を実践できているかどうかは別として
自分にとって必要だとか重要だと思える言葉は、大事にしておくといいんじゃないかなって、そんな風にも思います。
それと同時に
たくさんの書物(how to 本じゃなくてね)を読むことは、自分に刺さる言葉を見つけることでもあり
メンター的な人がいなくても、そういう言葉を自分の人生の経験を通して自分のものにしていく
それもまた、ひとつの、自灯明・法灯明なのかもしれない
そんな風にも思っています。