目は口ほどに物を言う
日本人なら多くの方が知ってるだろう諺ですよね。
実はこれを科学的に実証しようとした実験があるんです。
詳しくお話しし始めるとものすごく長くなるので、結果だけお話ししますけど。
コミュニケーションにおいて意味の90%以上は非言語にある
人間は「言葉」の「意味」を何によって受け取っているかという実験です。
その結果、人間はその言葉を言った時の顔の表情や声や身の乗り出し方、など
非言語(ノンバーバル)の部分に90%以上の意味を感じとって、相手のその言葉の意味を判断している、というものでした。
朝、学校や会社で会ういつもの人の「おはよう」という言葉。
いつもニコニコして明るい声であいさつしてくれる人が
今朝はなんだか、暗い顔をして声にも元気がありません。
人によっては
「どうしたんだろう、何かあったのかな?」
なんて、その元気のない人のことが心配になる人もいるかもしれませんね。
でもそれは具体的には何を以て、何かあったのかな?という風に思ったのでしょう。
発せられている言葉自体は、いつもと同じ「おはよう」という4文字の言葉です。
こうやって言われると、確かにバーバル(言語)よりもノンバーバルの部分での判断部分が大きいということが、実験関係なく日々の経験からもわかるんじゃないでしょうか。
そうすると、ノンバーバルな部分から90%以上もの意味を受け取っているのですから
他者とのコミュニケーションにおいて身体表現はとても大切です。
例えば自分が仕事をしていたり勉強をしていて、机に向かっているときに誰かに話しかけられて
つい自分は机に向かったまま、つまり相手に背中を向けたまま
「あ~はいはい」
なんていう風に生返事をしてしまった、そんなような経験ありませんか?
「はいはい」という肯定的な言語をメッセージとして出しているにも関わらず
相手は、背中を向けたままのそこに
拒絶というノンバーバルでのメッセージを受け取ってしまいます。
小さいときに、親や先生など大人から
相手の顔を見てお話ししなさい
なんて言われた方多いんじゃないでしょうか?
それって、つまり、そういうことです。
その手間にかかる時間は何秒?
例えば、仕事中、あるいは何かほかの用事をしているときに、話しかけられたとして
体をその相手に向けて、相手の顔をちゃんと見て返事をする、それにかかる時間は何分くらいかかるでしょう。
わずかその数分、あるいは数十秒、その手間を欠かしてしまったばかりに、相手の中に、ネガティブな感情を残してしまう。
なんだか、とてももったいない気がします。
誰かに話しかけられたとき、誰かと話すとき
どんなささいなことでも、必ず相手のほうへ体を向けて、あるいは顔を向けて、相手の顔を見て言葉を発する。
当たり前なことのようで、忙しいときにはつい忘れがち。
もしかしたら、相手を見るのが恥ずかしくて、あらぬ方向を見てしまうシャイな人もいるかも??
けれど
悪気も拒絶するつもりもないのに、相手の無意識にそういう風に受け取らせてしまうって
すごくすごくもったいないし、コミュニケーションにおける悪手だと言っていいんじゃないかしら。
愛情とは、ひと手間かけること
そういえば、知り合いのコックさんが言ってました。
料理は愛情っていうけれど、その愛情の正体はひと手間かけることなんだよ。
ってね。
確かに、おしゃもじぐるぐる回しながら「愛情・愛情(はーと)」なんてやったところで、美味しくなるわけがないですしw
例えば、お魚を煮る前に、ざっとお湯を回しかけて臭みをとってから煮るのとその手間をかけないのとだと、出来上がりの美味しさは違ってきます。
玉ねぎを生のままサラダに入れるとき、水にさらしてアク抜きをしないと、苦くて大変に食べづらいものになってしまいます。
愛情とはひと手間かけることである。
けだし名言です。