大切にするのは

コミュニケーション

人生は「誰と出会うか」で大きく変わる、そう思っています。
人は人によって育てられたり腐らされたりしていく。
それを、環境と言い換えてもいいのかもですが。

そして大切なことは、ただ出会ったところでその縁を大切にしない者には
その縁は一時の邂逅に過ぎない、ということ。

たいてい人というものは、失ってはじめて、その大きさや大切さに気付くことも多いのが現実だったりするようです。

気を遣う遣わないって、自身の不安の強さにも関係してる

信頼できる人をほど大切にしたほうがいいのに、信頼できる人に対して
安心という名の胡坐をかいて
これくらいなら…
と、甘えて、手抜きや不義理、手ですることを足でするようなことをしたり
自分の感情のはけ口にして、時には自分の中のモヤモヤやイライラを、その人には関係ないのにぶつけて、感情のサンドバックにするようなことをしてみたり
そうしながらも、甘えゆえにそのことを自覚することなく、そういったこどもっぽい甘えを重ねていくことがままあったりするのも、人というものの持つ愚かさのひとつなのかもしれない、と思ったりもします。

とはいえ、案外そういう対応をしてもいい(と思っている)人のことを、「気を遣わなくていい」相手と世間の人たちは言うのかもしれない、とも思ったりもします。

そうして、どこか信頼できないような人に、信頼できないからこそ否定されることや容認してもらえなくなるのではという怖れから、結果的に形だけを見るとそこに力を注いでいるように見えるようなことをしたり言ったり、そういう対応をしがちな人も案外多いなぁというのも、色々な人の話を聞く中で思ったりします。

やっかい相手には、距離をつめることなく適度にスルー、これができずに
Noが言えなかったり、場合によっては内心嫌なのに丁寧を通り越して過剰に相手をしてしまって
なにやら気づけば周りが困った人たちばかり・・なんていうのも時々耳にすることだったりします。

基本的安全感と感情貯金

配慮を通り越して、まるでご機嫌とりのような対応をしてしまうのは
・相手に対して、何か地雷を踏んだら自分を否定してきたり、エキセントリックにキチゲーが急上昇したり、害意を向けてくるんじゃないかっていう、無意識的な怖れがある人が
・そもそも相手に地雷が多すぎたり謎過ぎて、うっかり歩き回ると炸裂するような
そういうところから来る不安がベースにあるんじゃないかなぁって思うこともあります。

前者は自分自身の中にある世界に対しての怖れや不安、専門用語では基本的安全感の欠如というそれ由来だし
後者は相手自身の感情貯金の低さ由来なんじゃないかなぁって思っています。

誰かに介護してもらえないといられないような、感情貯金の低い状態が長く続いている人って
感情貯金のマイナスを補填するために、誰かから精神的介護を受けようとしてしまうし
そもそも借金が100万円の人に1万円を渡しても満足はしなくて、他者への補填期待値が高いので
ちょっとした配慮には気づけず、気づいてもあまりそこに感謝する気持ちにもならないので
反応が(好ましい反応で)大きい人に、無意識的にロックオンしちゃったりします。

基本的安全感が低い不安の強い人のまわりには、かえって感情貯金の少ないこれまた基本的安全感の低い人が謎の好意を寄せてわらわらと寄ってくる。
世間を見渡すと、比較的よく見られる光景のような気がします。
*付き合ってる人たちを見ると、その人のことがわかるって、そういうのもあるよねぇ

内心で苦手だなぁ、嫌だなぁって思ってるのに、不安から過剰に阿った言動をする人は、かえって面倒くさい人につきまとわれがちだし
気付いたら、周りは面倒くさい人ばかり、余計に世界への不信が強くなっていく・・
っていうマイナススパイラルにはまり込んでしまう。
カウンセリングの現場で、割とよく見る人たちです。

よく周りを見てみればわかることですが、多くの人は
要介護的コミュニケーションを過剰にとってくる病的策動癖のある人に対しては
当たらず触らず、決して距離を詰めることなく適度にスルーしてたりしますよ。

結局、気を遣わなくていい、不安を持たなくて済む相手にはこどもっぽい甘えから雑な扱いをし
反対に、無意識的に不安を感じる相手を過剰にご機嫌とりするかのように扱う。

そんなことをしていて、自身の人生に大きな影響を与える他者という環境をいいものにしていけるんだろうか??
そんなことをよく思います。

センスがよくて舌も確かな料理人のごちそうを、まるで3歳児の遊び食べのようにぐちゃぐちゃにしながら食べて
舌にまとわりつくような濃いい、美味しく感じられない料理人のお皿を丁寧に掲げて綺麗に食べているようなことをしていると
当然美味しく感じられないお料理は、人気がでないので、丁寧にお皿を掲げてくれる人にはとても気をよくして、更にお皿を持ってくるだろうし
それを断らずに、いちいちお皿を掲げて食べていけば
いずれ、自分の舌は味のわからないバカ舌になっちゃうような気がするんですけど・・ねぇ。

まぁそうはいっても
自身の甘えと、誰をこそ大切にすべきかを一種の知識的なものとしては理解していても
身体感覚を伴って理解するってなかなか難しいのも確かで
まぁだからこそ、失って初めて、身体感覚ともなってわかるっていう人が多いのでしょうとも思います。
切ない話です。

自分自身の人生を大切にするというのは
自分にとって、誰を大切にすればいいのか
それを身体感覚ともなって理解でき、それに応じたふるまいができる
そういうことも、ひとつあるんじゃないかなぁって思います。