薄皮一枚でもいいから、縁を留めておく

雑記

年齢かかわらず、孤独死と呼ばれる最期をおくられる方が、年々増えているようです。
独居老人がこれだけ増えると、それもさもありなんという感じもしますが個人的には
孤独死の問題は、誰にも看取られずに死ぬことよりも
○○さん、最近見ないね
っていうような人との繋がり、それが希薄な生活を送るという、そっちの方が大きいように思います。

死のその瞬間誰かに看取られようが1人だろうが、人間いやあらゆる生命は、死出の旅路は1人でいかなきゃならんわけで、そういう意味では死というのは原理的にある意味において孤独なものです。

けれど、まだこの世に生のある時間
自分のことを気にかけてくれるような人との繋がりが誰ともない人生というのは
生きていても、なんだか侘しく寂しいものじゃないかなぁと思ったりします。

同居家族がいれば、1人で死んでも数時間後遅くとも一日以内にはくら誰かが気づきますし
毎日顔をあわす人がいれば、死んでも2、3日もすれば誰かが気づいてくれるでしょう。
とはいえ、同居人がいても、朝起きてこないことを訝しんで見に行ったらら死んでた、なんて話も時々ききます。
死とはそういうものだと、ブッディストな私としてはそう思っています。

死とはそういうものだとしても、自分が亡くなったことに気づいてくれる人がいなくて
腐乱してからその腐乱臭に近所の人が通報、ってパターンなんかは、
死そのものよりも生きている時間こそが孤独な日々だったんじゃぁないかなぁって思ったりします。

そう思う時
大切に思う人には、特に用事がなくても時々はメッセージでも送りあって
お互いに、あなたのことを気にとめている、ということを形にしておきたいなぁと思いますし
縁を温めるっていうのは、そういうことなんじゃないかなぁって思っています。
年賀状みたいな、ある意味どうでもいいような繋がりだけだったとしても、消息を確認し合うという儀式があるのは、縁を薄皮一枚でもつなげておくということについて、意味のあることなんでしょうね。

気持ちが弱ってくると、あまりアクティブになれなくなるし、SNSに投稿する気力もなくなれば
アクティブになれないゆえに、投稿するようなネタもなくなってきます。
*まぁ日々の生活が充実しているゆえに、わざわざSNSで書きたい欲求がないってこともありますがw
だからこそ、大切な人には、SNSの投稿で生存確認するんじゃなくて
時候の挨拶みたいな、特に用のないことでもいいから、時々、個人的にメッセージを送りあって
薄皮一枚の縁でもつなぎとめておくことは、孤独な生を防ぐ意味でも大事なことなんじゃないかなぁって思います。
20年音沙汰のない相手に会いたいっていうよりも、時々消息を伝えあってる相手に会いたいっていうほうが、気持ちの上でもハードル低いじゃないですかw

便りのないのは元気な証拠、なんていうけれど
年齢とともに少しづつ、便りがないなぁと思ってたら亡くなってた、なんてことがじょじょにあらわれてきました。

そんなこともあって、年齢を重ねれば重ねるほど、ちょこっとした、たわいのない便りを送り合えるような、そんな友との関係というのを大切にしたいなぁ・しなきゃなぁと思ったりします。

古い友の訃報に際し、かつての思い出は色々とでてくるのに、その人の最近の顔が思い浮かばない
そのことに、忙しさにかまけて何年も会ってなかったことにあらためて気づいたりもします。

大切な人の顔は、やっぱり、時々見ておく方がいいな。
おばさんになって、あらためてそんなことをしみじみと思うのです。

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