私の坐禅のお師匠さんがおっしゃる「用心五か条」というものがあります。
その中のひとつに
死後の世界や霊魂の話をする人の前で
ー死後の世界や霊魂があるかないかではなく、何を欲望してその話をするのかに用心
というものがあります。
これ、スピリチャルなことや、他にもエビデンスの不確かなもの全般にも同じことが言えるように思えます。
もうずいぶん昔のことですが、ノストラダムスの大予言ってありましたよね。
世界が滅ぶっていう例のあれ。
*まぁ結局、世界は滅ばなかったワケですが
他にも、アセンションだっけ?
他には、地球のことをすごく心配してくれてる宇宙人からのメッセージとか。
んーと、んーと…何だっけ?
なんとか言う人?霊体? か何かから、メッセージを受け取る的な。
いやもう、ほんと盛沢山にスピな言説っていっぱいあって、好きな人は好きですよねぇ、そういうの。
無記という姿勢
私は、ブッディスト、しかも原始仏教原理主義的な人なので
あるのか・ないのかわからない、いるのか・いないのかわからないもの
それを証明のしようのないものに対しては
わからない、以上でも以下でもないという態度を貫く
それを仏教では、無記と呼びますが、その姿勢にしびれる系だったりします。
*正確には、それについては言及しない、ですが。
ちなみに、個人的には、無記という態度こそは仏教がそれ以外の宗教と全く異なる点のひとつだと思っていますし
また、ゴータマ釈尊のこの態度については、いちサイエンティストとして尊敬しかなかったりします。
*死後の世界とか、阿弥陀様とか、その手のこと
実はゴータマ釈尊は方便以外では、つまり自身の心のありようとしては、一切言及していないんですよ。
で、ですね
そういう私ですから、スピな人たちの、謎の信仰心?のようなもの、そしてその強さには
ある種の感心をしてしまったりしています。
信じ込むのは、何かから逃れたり、救われたりするため?
いつだったか、お師匠さんとお話ししていたときに
あの人たちは、自分の主観以外の何を根拠に、あのように強く信じ込めるんでしょうねぇ
なんてことを私が言ったことがありました。
その時のお師匠さんの返答は
それを信じ込むことで、求める何かがあるのかもしれないですね
*つまり、何らかの目的のための手段として盲従という方法をとっているということ
というものでした。
信じ込むというのは、ある種、縋るというのと似た行為です。
縋るというのは、いわば溺れている人がとる行為なわけで
つまりスピな何かに縋ることで、何かから救われようとしているということなのかな
と、お師匠さんの言葉を私はそういう風に解釈し、確かにそうかもなぁと思ったことが強く印象に残っています。
じゃあ、あの人たちは何から救われようとして、何から逃げようとして、明らかに趣味娯楽の範囲を大きく超えた、信仰レベルでスピリチャルな何かを信じ込んでいるんだろう?
と考えたときに、ハッと思い当たったある事件がありました。
それは、某ジェムリンガと呼ばれるパワーストーンが5つほど連なったものを、膣内に入れることで女子力が上がったり、何か?が浄化されたりっていう謳い文句の商品なんですが
*某になってないやん、という意見はナシの方向でよろしくw
それを信じ込んで実行した結果、それが膣内にめり込んで敗血症になって亡くなったとか
子宮内膜炎を起こした方が続出したというものです。
いやいやいや、普通に考えて、それ危険やん?って思わんか?
と、呆れてみていたんですが
結局、そういうものを信じ込むことで、自分の頭で考えて判断する、ということをしなくて済むってことなんだなって、お師匠さんの言葉から思いついたわけです。
賛否両方の意見を調べることの重要性
趣味娯楽の範囲ならね、キャンプ好き・ガンダム好き・SF好きみたいなノリで、占いでもスピでも何でも、人生に潤いを与えてくれていいんじゃない?と思うけれど
自分の頭で判断して考えることを放棄してしまうレベルになってしまうと、某ジェムリンガのように、危険をともなうことも多々あるよねって思ったりします。
今は、ひとり一台スマホの時代ですから、何でもすぐにお手軽にgoogle先生に聞くことができる反面
その情報の反対意見も調べなくては、誤った情報にうっかりのってしまうリスクもあるわけで。
ジェムリンガの被害に遭われた方たちの中で、あとからネットで「ジェムリンガ 危険」ってワードで調べてみて、そのリスクを知った方がいたとしたら
どうして、最初にリスクも調べておかなかったんだろうと後悔したんじゃないかと思うんです。
これは、うちの生徒さんたちに時々言うことなのですが、常に反対意見も調べて
あることについてポジティブな意見とネガティブな意見、両方をそろえた上で判断してみないと危険ですよ
ということです。
お手軽に情報にアクセスできる時代だからこそ
そして誰でもが簡単にウェブサイトやSNSなどで情報をネットにあげることができる時代だからこそ
時に誤った情報が拡散されたりすることは、ままあることで。
だからこそ、賛否両方の意見や主張を調べることが、今の時代だからこそのリテラシーなんじゃないかって思います。
そして、時に誤った情報や、意図的にリスクが書かれていない情報を信じ込むことは、大きなリスクを内包していると同時に
それを信じ込んでいる間は、自分で色々調べる手間も必要ないし、自分の頭で考え判断することからも逃れられるというメリットもあるわけで。
例え、一時的なそのメリットのせいで、あとから死ぬほど後悔するようなことがあるとしても。
盲従ではなく、ほどほどが一番
何事も、盲目的になってしまうと、見失ってしまうことがたくさんでてきてしまいます。
ドラえもんのどこでもドアを信じ込んで、ドア板を持ち歩いて、私にはどこでもドアがあるから大丈夫!
なんてことを本気で言う人がいれば、まず一般的な多くの人は、大丈夫か、あれ?となるじゃないですか。
それがスピリチャルな何かだとか、教祖的な誰かに、本気で盲従してしまうとき、それをおかしくない?って自分で思えなくなるのは、だからこそ盲従なんでしょうけれど
そして、割と多くの人間は、自分の頭で判断することにはエネルギーも手間もかかるので、ある種の強いストレスなんだろうとも思いますが
それでも、どんな理由があろうと
自分の人生を大切にしたいなら、盲従するのではなく、時に反対意見も聞いてみたり調べてみたりして
ほどほどに信じておくのが、自分の人生を守るうえで大事なことなんじゃないかなぁって思います。
人生の最後まで、ずっと付き合い続けないといけない唯一の存在は自分自身です。
だからこそ、自分自身を守るためにも、自身の態度として
趣味娯楽を超えた範囲で、何かを誰かを盲従するのは、ちょっと危険ですよ
ということは、心の片隅に置いておく方がいい。
この仕事をしていて、妄想に捉われしまう病の方をたくさん見てきていますし
あるいは、病ではないけれど、ジェムリンガ被害にも通じる
ちょっと考えたら、あるいは調べてみたらわかることも、信じ込んでしまって自身で考えることを放棄したせいで、大きな被害を受けた方たちもたくさん見てきています。
それにともない、盲従するということについて、その危険性を強く意識するようになりました。
80%くらい信じて、20%くらいは違うかもしれない、くらいに考えて
いざ何かを判断したり、行為化するときには、その前にちょっと反対意見もあらかじめ調べてみる
それをしておくと、心の片隅にひっそりと入っている反対意見によって、猪突猛進がちょっとだけ防げる..かも。
これが、現代人の持てる知恵のひとつなんじゃないか。
今日も色々な事をgoogle先生にお聞きしながら、サンドイッチ片手にそんなことをつらつらと思うお昼時。
私にも、盲従してしまって、あとからめちゃくちゃ後悔したこと、いっぱいあったなぁ…..